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古今料理集

いい香りのする料理屋さん 歌舞伎俳優 坂田藤十郎

坂田藤十郎襲名公演の初日、小山さんにお弁当を届けていただきました。楽屋の役者さんたちも交えて三十人分近く、みなおいしいと評判でした。小山さんの料理は、自分と一緒と言ったら僭越かもしれませんが、上方歌舞伎と同じで、諸先輩からいただいた芸がちゃんと消化され、ご自身のものになっています。それが伝統の尊さなのですね。小山さんも吉兆のおじいさんについて勉強なさって、それを大事にしながら「いまの料理」を作っています。 友人と虎ノ門・青柳に行ったときのことですが、鯛をアラ炊きにしてもらおうと思ったら、まだ時季が早いからやめましょう、と小山さんは言う。素材のいちばんいい時季を吟味して出してくれるのが分かるから、私は、行って何を食べたいなんて言いません。時折、一見してどうやって作ったかわからない料理が一品、献立に入っているのも楽しい。何だと思います? と、説明を加えながら料理を出してくれる。ははん、なるほどと小膝を打ちながら食べる。そんなやりとりを小山さんも楽しみながらお料理を出しているんでしょうね。 お客様と一緒になって舞台を盛り上げる、それは役者も料理人も同じ。私は「曽根崎心中」のお初の役だけで千三百回、五十年以上続けています。千何回もやると慣れてしまって、初日なんて軽い気持ちで出るのでしょうと言われます。きざに聞こえるかもしれませんが、何回やってもいつも初演の気持ちです。お料理も毎日新しい気持ちで出していらっしゃるのでしょう。そこが私はとても好きなんです。(談)

一月めでたい

私たち料理屋の家では、年末の数日をかけておごそかに玄関や床の間を飾り、準備を整えてから、大晦日にお得意様におせちを配り、ようやく一年を終えます。あわただしく動き回った師走が嘘のように、静かな正月がやってきます。 青柳本店には、大きな柳の木があり、家族みなで飾りつけるのが習わしです。玄関には紅白の餅花を作って飾り、柳を結ぶ。奥座敷の床の間には、豊潤な海に輝かしくのぼる太陽を軸に、白木の三宝にびっしりと白米を敷き詰め、その上にお供えの鋼をのせてしつらえます。これは神饌の考えに基づいています。 古くから日本ではその年に収穫された海と陸の「食べる富」を、神饌として奉納することで神と交わってきた歴史があります。塩、飽、米などさまざまな神饌を奉納する風習は伊勢神宮に始まり、今も広く日本各地に色濃く残されています。なかでも鯛は、その立派な姿形と赤い色、そして芳醇なおいしさが格別ですから、めでたさを呼ぶ海の王者といえるでしょう。

二月きわ立つ

おひたしの野菜の断面を見てください。断面がきりっとしています。切ることによって味は表現されます。三つ葉、江戸三つ葉、せりなどの“軸もの”は揃えて切り、うど、蕗、セロリは少し斜めに角度をつけて切る。筍だけは旨みを出すために煮含めてから桂むきにしています。“切れ味”を変えると、それぞれの野菜の持ち味がきわ立って舌に伝わります。 日本語には「きわ立つ」という言葉がありますが、この「きわ立つ」感覚こそ、日本料理で一番大切なものです。メリハリをつけるのとは違います。メリハリとは、こちらの意向を相手に伝えるための演出技術といいますか、少し作為が感じられます。きわ立つところには、清潔感がある。私が大切だと思う、清らかさ、清潔感を目立たせるためには、この「きわ立たせる」という感覚が必要です。盛りつけのみならず、包丁の姿形一つから、煮付け、切り、味付け、焼いた仕上がりの姿。そこにある明快な美しさこそ、私が常々目指している一つの方向なのです。

三月鯛が喜ぶ

若い頃、フランス料理のフォアグラに近いものを自力で作ったことがあります。ひらめの肝をしょうがで炊いてくせ抜きし、裏漉しして焼いた玉子や鶏の脂を入れるのです。もちろんフォアグラの作り方も、フォンのとり方も知らない頃です。食味としてはかなり近くなりました。当時は、素材を生かすということは、おいしく作ることだと思っていましたから、素材の味を生かす、素材の声を聞くことなど、思ったこともありませんでした。 いま思えば、鯛のアラ炊きを作れば、できた料理は私が作ったものだと主張していました。鯛は黙っていました。鯛は話せないほど、甘辛くたれに包まれていたのです。酒を入れて焼いて、貝を入れて、和三盆を入れてみりんを煮詰めて。でもある日、少し達うと思いました。声高にもの言う自分が嫌になったのです。それなら鯛に話させて、その言葉に耳を傾けてみようと、鯛が喜ぶ料理を作ろうと思ったのです。これが「鯛の淡淡」を生むきっかけとなりました。いまでは鯛と大の仲良しです。

四月生命力

一言で春といっても、いろんな春があります。春先、寒暖が入り交じる春を経て、三寒四温、だんだんと十分に春が深まっていき、ようやく爛漫の春を迎えます。同じように、おいしいものには季節を追うように、それぞれ走りと旬と名残りの味わいがあります。 春がやってくる足音が遠くに聞こえると、筍の季節が始まります。初春の寒い時季に採れたものから徐々に始まり、四月に旬を迎えた筍は、おそらく野菜の中では一番生命力が強いのではないでしょうか。小さな芽からあれだけの成長率で数メートルにまで竹が育つ力が、筍にぎゅっと凝縮されています。筍づくしの料理は、みなさんお好きですね。お刺身があったり焼き物があったりとさまざま。アジアの他の国にも筍料理はありますが、筍にあまり手を加えずにいただく習慣は、おそらく日本にしかありません。 筍のほとばしる生命力を人間の体に取り込むにはえぐみが伴いますが、これもまたおいしさの一つと私は考えます。

五月おひたし

三つ葉と椎茸、大根のおひたし。もともとは二十年以上前に、大根だけで作りました。不思議と、どこでどう発想して思いついたのかよくわからない料理です。 ご存じかと思いますが、本来、大根のおひたしというものはありません。炊いてしまえば、煮大根、生のままでは出汁になじまない、塩をしたらなますになる。ですから、おひたしにした、サッとゆがいた大根のおいしさというのは考えてみればあまりありません。このおひたしは、外側は醤油と塩が入っておいしくなった煮大根で、もう少し中は火が入って煮汁の塩分が染み込んだなますに、一番真ん中には生の状態を残しています。 料理人は、火加減を変えることによって、百度から零度まで自在に温度をあやつることができるので、いろんな素材の状況や形を変えていけます。ひいては味がなじむ速度や時間を変えて、あらたな料理を生み出すこともできるのです。こうした自由自在な立場を、この三ミリほどの大根が語りかけています。

六月走り

六月といえばちょうど春が終わり、夏の走り。ものにはそれぞれおいしさがあるといいますが、鮎ほど六月の走りがおいしいものはありません。獲れたての天然の鮎をそのまま串に打ち、塩だけふってそのまま焼く。脂もありますが、香魚と書くぐらいですから、香り、品がよく、ほろ苦さがとてもいい。 鱧は、同様に六月から使い始め、走りの頃から旬にかけて、名残りの落ち鱧に松茸と、夏から秋にかけてずっと前面に立ってもらいます。鯛は、割合万能系の役者さんで、どんな役もこなせる芯の強い魚です。若鮎は違います。確かに子持ち鮎のように、脂ののった格段においしいものもありますが、走りの鮎の、ほのかな苦みと香りを湛えた印象を、できれば来夏また出会うときまで残しておきたい。ですから青柳では、鮎は六月にしか出さないようにしています。 人には走りと旬と名残が、一生のうちにそれぞれ一度しかありません。鮎に向かい合うと、そのはかなさゆえに、自ずと襟を正して調理場に立ちます。

七月涼と爽

家庭料理に近いものを料理屋でお出しして、その仕上がりの違いを見てもらうことがあります。このきゅうりの酢の物は、塩抜きをして、出汁と醤油と足し、仕上げにすだちをきゅっと加える。たったこれだけの料理で、ああおいしいなと言っていただけたら、うれしいですね。作る時間はあっという間です。時間がかかればきゅうりの香りが抜けてしまい、塩が入れば入るほど、きゅうりの水が抜ける。いわば瞬間の瞬。タイミングだけの料理です。作りおきしてどうぞというわけにはいきません。 夏の暑さをしのぐため、氷をたくさん使って涼感を出すのは、ちょっと昔風かもしれません。体がほてったときでも、今はどこでも冷房が効いてますから、無理に氷で涼感を表現する必要はありません。胡瓜の酢の物は、口の中に入ると爽やかですよ。爽やかさと涼しさとは、ちょっと違います。直接温度を下げるのではなく、見て、口に含んで爽やかさを感じることで、暑さをしのいでいただければと思います。

八月針が立つ

徳島本店の一番奥の座敷は、軒が深く、強い日差しが照り返しになって届きます。こうした風情は都会にはなかなかありません。風が渡るといいますか、日なたは暑いのに座敷の中はどこかひんやりしています。暑さをしのぎながら、疲れた体にぴったりの滋味あふれる料理をいただく。私どもはお客様の前、下座で穴子の天ぷらを揚げたり、ぼうぜのお寿司を握ったりといった演出を加えて夏をしんでいただいています。 天ぷらといえば海老、という人も多いようですが、私には、やはり穴子です。衣は薄いほうがいいのですが、薄いだけではあまりおいしくありません。衣がパリパリとしてたっぷり食べられて、それがガラスのような感じに揚がると一いうのが快心の作です。これを「針が立つ」と私たちはいいます。穴子の天ぷらの細い衣のしずくが、深い油の中で揚がり、衣をパリパリとつゆにひたしていただく。穴子そのものの旨みに、衣の芳ばしい食感を加えてあげるのです。

※古今料理集より抜粋